はじめに
民事紛争が訴訟に発展した場合、自らの主張の正当性を裁判所に認めさせ、有利な判決を獲得するためには、客観的な証拠に基づく立証活動が極めて重要となります。しかしながら、時間の経過や関係者の行為によって、訴訟提起時には既に重要な証拠が散逸・改ざんされ、あるいは隠匿されてしまい、立証活動が著しく困難となる事態も少なくありません。
このような事態を未然に防ぎ、将来の訴訟における立証の途を確保するために、民事訴訟法は「証拠保全手続」という制度を設けています。これは、訴訟の提起前または係属中を問わず、あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情がある場合に、裁判所が主体となって証拠調べを行う手続です。
本稿では、この証拠保全手続の意義、重要性、具体的な申立ての方法、手続の流れ、さらには留意点や弁護士に依頼するメリットに至るまで、専門家の視点から格調高く、かつ実践的に解説いたします。紛争の兆候を察知し、あるいは既に紛争が顕在化している状況において、いかにして重要な証拠を保全し、将来の権利実現に繋げるか、その戦略的思考の一助となれば幸いです。
証拠保全手続に関するQ&A
証拠保全手続について、皆様から寄せられることの多いご質問とその回答を以下に示します。
Q1:証拠保全手続とは、具体的にどのような場合に利用されるのでしょうか?
証拠保全手続は、「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情」が存在する場合に利用されます。例えば、証拠書類が相手方の管理下にあり、改ざんや破棄のおそれがある場合(例:医療過誤が疑われる場合のカルテ、企業内部の不正に関する文書)、時間の経過とともに変化・滅失してしまう可能性がある物や状況(例:建築物の瑕疵の状態、事故現場の状況)、あるいは証人となり得る人物が高齢や重病である、遠隔地に居住しているといった事情により、将来の訴訟期日での尋問が困難と予想される場合などが典型例として挙げられます。
Q2:証拠保全の申立ては、いつ行うべきでしょうか?訴訟を起こした後でも可能ですか?
証拠保全の申立ては、訴えの提起前であっても、訴訟係属中であっても行うことが可能です(民事訴訟法第235条第1項)。証拠の散逸や改ざんのリスクが高いと判断される場合には、訴訟提起を待たずに、迅速に申立てを行うことが肝要です。
Q3:証拠保全には、どのような費用がかかりますか?
証拠保全の申立てには、裁判所に納める手数料(収入印紙)と郵便切手が必要です。手数料は、対象とする証拠調べの種類や個数によって異なります。これらの実費に加え、手続を弁護士に依頼する場合には、弁護士費用(申立手数料、日当など)が発生します。
Q4:証拠保全を行うと、相手方に知られてしまうのでしょうか?
証拠保全手続は、原則として相手方に事前に知られることなく開始されますが、裁判所が証拠保全の決定をし、実際に証拠調べを実施する際には、相手方またはその代理人に呼出し状が送達され、立会いの機会が与えられます。
Q5:相手方が証拠保全の実施に協力しない場合、どうなりますか?
証拠保全は、捜査機関による強制捜査とは異なり、直接的な物理的強制力を伴うものではありません。しかし、裁判官が証拠調べを行うにあたり、相手方や第三者に対して検証物の提示を命じたり、協力を求めたりします。また、相手方の不協力な態度は、その後の訴訟において裁判官の心証に影響を与える可能性も否定できません。
解説
証拠保全手続の戦略的重要性と実践的方法論
証拠保全手続の意義と法的根拠
証拠保全手続は、民事訴訟法第234条以下に規定される法制度であり、「裁判所は、あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情があると認めるときは、申立てにより、この章の規定に従い、証拠調べをすることができる」と定められています。この「あらかじめ」とは、訴訟の口頭弁論期日における正式な証拠調べの前に、という意味合いを含みます。
本手続の核心的意義は、訴訟における証拠の重要性に鑑み、証拠の散逸、隠滅、改ざん、変質といったリスクから将来の立証活動を守り、真実発見と公正な裁判の実現に資することにあります。時機を逸すれば回復困難となる証拠を、訴訟の帰趨を待たずに早期に確保することで、実体的な権利関係の的確な把握と、それに基づく紛争の適正な解決を期するものです。
訴訟前に証拠を確保する戦略的重要性
民事訴訟において、「証拠は訴訟の運命を左右する」と比喩されるほど、その役割は決定的です。主張する事実が真実であったとしても、それを裏付ける客観的な証拠がなければ、裁判所にその事実を認定させることは極めて困難となります。
とりわけ、証拠が相手方の支配領域内に存在する場合や、時間の経過と共にその状態が変化・消失する性質のものである場合、訴訟が本格的に開始されるまでの間に、当該証拠が失われてしまう危険性は常に付きまといます。例えば、医療過誤が疑われる事案における診療録、企業の不正会計を疑う事案における会計帳簿、欠陥建築が疑われる事案における建築物の現状などがこれに該当し得ます。
このような状況下で、証拠保全手続は、以下のような戦略的重要性を有します。
- 証拠の滅失・改ざん・隠匿の防止
相手方による意図的な証拠破壊行為や、時間の経過に伴う自然な劣化・変質から証拠を守ります。 - 訴訟戦略の早期立案
保全された証拠の内容を早期に把握することで、訴訟提起の可否、請求内容の具体化、立証方針の策定など、的確な訴訟戦略を練ることが可能となります。 - 和解交渉の有利な展開
客観的かつ強力な証拠を早期に提示することで、相手方に対して事実関係を認めさせ、訴訟に至る前の段階での和解交渉を有利に進めることが期待できる場合があります。 - 真実発見への貢献
訴訟の初期段階で確実な証拠を確保することは、裁判所による事案の真相究明を助け、より公正な判断を導くことに繋がります。
証拠保全の申立てが認められる要件
証拠保全の申立てが裁判所に認められるためには、主に以下の要件を満たす必要があります。
- 被保全権利・権利関係の存在
将来の訴訟で主張立証しようとする具体的な権利または法律関係が存在すること。 - 保全すべき証拠の特定
どのような証拠を、どのような事実の証明に用いるのかが具体的に特定されていること。 - 証拠保全の必要性
民事訴訟法第234条にいう「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情」が存在すること。これが最も中核的な要件です。
「証拠を使用することが困難となる事情」の具体例としては、以下のようなものが挙げられます。
証拠の滅失・毀損・改ざんのおそれ
- 相手方が証拠書類を破棄・改ざんする具体的な危険性がある場合(例:過去の言動、紛争の態様から推認される)。
- 証拠物が自然に劣化・変質・消失する性質のものである場合(例:生鮮食品の品質、事故車両の損傷状況の経時変化)。
証人の証言確保の困難性
- 証人となるべき人物が高齢または重病で、将来の口頭弁論期日まで生存しているか、あるいは出廷して証言できる健康状態にあるか不確実な場合。
- 証人が遠隔地に居住しており、将来の出廷が物理的に困難であるか、多大な費用と時間を要する場合。
- 証人が海外へ移住する予定があるなど、将来的にその所在が不明となる可能性がある場合。
検証対象の状況変化のおそれ
建築物の瑕疵や事故現場の状況など、修補や時間の経過によって現状が変更され、検証が不可能または著しく困難となるおそれがある場合。
その他
- 専門的な知見を有する者が作成した鑑定書や意見書など、その作成者が死亡・行方不明等になる前にその者の認識を明らかにしておく必要がある場合。
- 電子データのように、容易に消去・改変され得る性質の証拠で、その保全が急務である場合。
申立人は、これらの事情の存在を具体的に主張し、疎明資料(証拠によって一応確からしいと裁判官に推測させる程度の立証)を提出する必要があります。
証拠保全の申立ての方法と手続の流れ
証拠保全の申立ては、書面(申立書)によって行います。
(1)管轄裁判所
訴えの提起前における申立ては、原則として、尋問を受けるべき者若しくは文書を所持する者の居所、または検証物の所在地を管轄する地方裁判所または簡易裁判所に対して行います(民事訴訟法第235条第2項)。訴えの提起後であれば、その証拠を使用すべき審級の裁判所にしなければなりませんが、最初の口頭弁論の期日が指定され、又は事件が弁論準備手続若しくは書面による準備手続に付された後口頭弁論の終結に至るまでの間は、受訴裁判所にしなければなりません(同条第1項)。ただし、急迫の事情がある場合には、訴えの提起後であっても、尋問を受けるべき者若しくは文書を所持する者の居所、または検証物の所在地を管轄する地方裁判所又は簡易裁判所に証拠保全の申立てをすることができます(同条第3項)。
(2)申立書の記載事項
証拠保全申立書には、主に以下の事項を記載する必要があります(民事訴訟規則第153条)。
- 当事者(申立人及び相手方)の表示
- 証すべき事実(証明しようとする具体的な事実)
- 保全すべき証拠(検証物、尋問する証人、鑑定事項など)
- 証拠保全の事由(あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情)
- (訴えの提起前の場合)相手方となるべき者の氏名又は名称及び住所、請求の趣旨及び原因の要旨
(3)疎明資料の添付
証拠保全の事由(必要性)を疎明するための資料を添付します。例えば、証拠隠滅のおそれを示す資料、証人の診断書、検証対象物の写真などです。
(4)費用
申立手数料として収入印紙を申立書に貼付し、その他、手続に必要な郵便切手を予納します。
(5)手続の流れ
- 申立て
申立人が管轄裁判所に証拠保全申立書を提出します。 - 審理
裁判所は申立書や疎明資料を審査します。必要に応じて、申立人から事情を聴取する審尋が行われることもあります。 - 決定
裁判所が証拠保全の必要性を認めた場合、証拠保全決定(どの証拠について、いつ、どこで、どのような方法で証拠調べを行うかなどを定めた決定)をします。申立てを却下する場合は却下決定をします。 - 相手方への送達・呼出し
証拠保全決定が出されると、原則として、証拠調べの期日呼出状及び決定正本が相手方に送達され、立会いの機会が与えられますが、送達は期日直前に送達される傾向にあります。 - 証拠調べの実施
指定された期日・場所において、裁判官の指揮のもと、書記官立ち会いの上で証拠調べが実施されます。 - 調書の作成
裁判所書記官は、証拠調べの結果を記録した調書(証拠保全調書)を作成します。この調書は、その後の訴訟において重要な証拠となります。
証拠保全実施における留意点
- 専門家の活用
特に検証や鑑定においては、対象物の性質に応じてIT、建築、医療などの専門家の協力を得ることが、的確な証拠収集に繋がります。弁護士と連携し、適切な専門家を選任し、事前に十分な打ち合わせを行うことが重要です。 - 相手方の協力
相手方が検証物の提示を拒否するなど、非協力的な態度をとる場合もあります。裁判官による説得や指示、場合によっては検証物提示命令の発令といった対応がなされますが、物理的な強制はできません。しかし、不当な不協力は、その後の訴訟で不利な心証を招く可能性も考慮されます。 - 記録の重要性
証拠保全調書は、裁判官が直接見聞した結果や証言内容が記載された公的な記録であり、後の訴訟において強力な証拠となります。調書の内容を精査し、その後の主張立証に戦略的に活用することが求められます。 - 密行性と迅速性
証拠保全の申立ては、相手方に察知される前に、かつ証拠が失われる前に迅速に行う必要があります。そのため、事前の周到な準備と、機を逸しない判断が不可欠です。
電子データ(デジタル証拠)の証拠保全
現代社会においては、契約書、会計帳簿、業務日報、電子メール、チャット記録など、多くの情報が電子データとして保存・管理されています。これらの電子データは、改ざんや消去が容易である一方、紛争解決の鍵を握る重要な証拠となることが少なくありません。
電子データの証拠保全においては、単にデータをコピーするだけでなく、その完全性(作成日時、変更履歴などを含むメタデータ)を担保し、法的に有効な証拠として収集するための専門的な知識と技術(デジタルフォレンジック)が必要となる場合があります。
証拠保全の限界と他の証拠収集方法との比較
証拠保全手続は強力な証拠収集手段ですが、万能ではありません。例えば、相手方の頭の中にある記憶や、まだ作成されていない文書を対象とすることはできません。また、相手方の協力が得られにくい場合や、検証対象が広範囲に及ぶ場合には、限界が生じることもあります。
そのため、証拠保全手続と並行して、あるいは状況に応じて、以下のような他の証拠収集方法も検討する必要があります。
- 弁護士会照会(弁護士法第23条の2)
弁護士が受任している事件について、所属する弁護士会を通じて、官公署や企業等に必要な事項の調査・照会を行う制度です。 - 調査嘱託(民事訴訟法第186条)
裁判所が官公署や企業等に対し、特定の事項に関する調査を依頼し、その結果の報告を求める制度です。 - 文書送付嘱託(民事訴訟法第226条)
裁判所が文書の所持者(第三者を含む)に対し、その文書の送付を依頼する制度です。 - 文書提出命令(民事訴訟法第221条以下)
訴訟係属中に、裁判所が文書の所持者に対し、その文書の提出を命じる制度です。正当な理由なく提出を拒否した場合には、一定の不利益(相手方の主張を真実と認めるなど)が生じることがあります。
これらの手続は、それぞれ特徴や要件、実効性が異なるため、事案の性質や証拠の所在、相手方の態度などを総合的に考慮し、最も適切かつ効果的な手段を選択する必要があります。
証拠保全手続を弁護士に相談・依頼するメリット
証拠保全手続は、その申立てから実施に至るまで、高度な法的知識、戦略的判断、そして迅速かつ的確な対応が求められる専門的な手続です。弁護士に相談・依頼することには、以下のような顕著なメリットがあります。
- 的確な要件判断と申立戦略の策定
弁護士は、事案を詳細に分析し、証拠保全の必要性や具体的な証拠方法、保全すべき証拠の範囲などについて法的な観点から的確に判断し、効果的な申立戦略を策定します。 - 専門的な申立書の作成と疎明資料の収集
裁判所を説得し、証拠保全決定を得るためには、法的要件を充足した質の高い申立書と、それを裏付ける十分な疎明資料の提出が不可欠です。弁護士は、これらの準備を専門的かつ迅速に行います。 - 迅速な手続進行
証拠保全は時間との勝負となるケースが多く、遅滞は致命的となり得ます。弁護士は、裁判所の手続を熟知しており、申立てから決定、実施までを円滑かつ迅速に進めることができます。 - 証拠調べ実施期日における適切な対応
裁判官や相手方、関係者との折衝、専門家の手配と連携、不測の事態への対応など、証拠調べの実施期日において、依頼者の利益を最大限に守るための適切な活動を行います。 - 保全された証拠の戦略的活用
証拠保全によって得られた証拠を精査し、その後の交渉や訴訟における立証活動にどのように活用すべきか、戦略的なアドバイスとサポートを提供します。 - 精神的負担の軽減
法的手続に伴う複雑さや精神的なプレッシャーから解放され、安心して本業や日常生活に専念することができます。
特に、証拠が相手方の管理下にある場合や、専門的な知見が必要となる証拠(医療記録、電子データ、建築瑕疵など)の保全においては、弁護士の専門性と経験が重要となります。
まとめ
未来の権利実現のための先を見据えた一手
証拠保全手続は、紛争解決の初期段階において、将来の訴訟における自らの主張の正当性を裏付けるための礎石を築く、極めて戦略的な意味を持つ法的手続です。適切な時期に、適切な方法で証拠を保全できるか否かが、紛争の最終的な帰趨を大きく左右すると言っても過言ではありません。
しかし、この手続を的確に利用するためには、民事訴訟法に関する深い理解に加え、事案の特性に応じた高度な判断力と実務経験が不可欠です。証拠の散逸や改ざんといった危機を察知した場合には、躊躇することなく、早期に法律の専門家である弁護士にご相談いただくことを強く推奨いたします。
弁護士法人長瀬総合法律事務所は、豊富な経験と知識に基づき、皆様の正当な権利実現のため、証拠保全手続を含む法的手段を駆使し、最善の解決策を追求してまいります。まずは一度、お気軽にご相談ください。
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