【質問】

当社では、遠隔地から通勤する社員に対して、会社の認める通勤経路であれば通勤代を支給しています。
ところが、社員Xは、当社が通勤手当ての支払を認める通勤経路を申請しつつ、実際にはそれよりも不便ですが交通費の安く済む通勤経路を利用して通勤しており、その差額を不正に受け取っていたことが判明しました。
不正に通勤手当てを受け取っていた期間は4年超に及び、その差額も30万円強に及んでいます。
Xは差額の返還を申し出ていますが、不正に受け取った金額を毎月の給与から差し引くとともに、別途懲戒解雇も検討していますが、問題があるでしょうか。

【回答】

類似の裁判例に照らすと、被害金額が多額とはいえず、また、住所自体を偽っていたような悪質な事案とまではいえないため、Xに対する懲戒解雇までは認められない可能性が高いと思われます。
また、不正に受給した通勤手当てと給与とを相殺することは原則として否定されていますが、Xが自由意志に基づいて同意している場合には、相殺することが許容され得ます。

【解説】

1. 通勤手当ての不正受給と懲戒処分

社員が実際の通勤経路と異なる、虚偽の通勤経路を神聖視、不正に通勤手当てを受給していた場合、就業規則違反等を理由に、懲戒処分を行うことが考えられます。
この点、参考になる裁判例として、以下のものが挙げられます。

裁判例

不正受給の期間

被害金額

虚偽の住所の申告の有無

懲戒解雇の有効性

かどや製油事件(東京地裁平成11年11月30日労判777号)

約4年5ヶ月

約231万円

有り

(虚偽の住民票を提出)

有効

アール企画事件(東京地裁平成15年3月28日労判850号)

約3年間

約100万円

有り

(虚偽の住所を申告)

有効

光輪モータース事件(東京地裁平成18年2月7日労判911号)

約4年8ヶ月

約34万円

無し

(住所に虚偽はないが、申告した通勤経路と異なる)

無効

ご相談のケースに類似した裁判例として、光輪モータース事件(東京地裁平成18年2月7日労判911号)があります。
光輪モータース事件では、会社が通勤代の支払を認める通勤経路を申請しつつ、それよりも不便だが安い通勤経路を利用し、浮かせた通勤手当ての差額分を不正受給した従業員の懲戒解雇の有効性に関して、裁判例は、通勤経路を変更しなければ、変更前の通勤手当てを受給できたのであり、あえて遠回りの経路を選択したような詐欺的な場合と比較してそれほど悪質ではないこと、現実的な経済的損害が34万円と多額とはいえないこと、返還の準備ができていること、当該従業員は懲戒処分をこれまで受けていないこと等を理由に、懲戒解雇を無効と判示しています。
かかる裁判例を踏まえると、ご相談のケースも、Xが不正受給していた期間は4年超と長期に及びますが、会社の経済的損害は30万円強にすぎず、Xも返還の準備ができていること等を考慮すると、Xに対して懲戒解雇までは認められないものと思われます。

2. 賃金全額払いの原則

労基法24条1項本文は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」と規定しており、会社は原則として社員に対して賃金の全額を支払う必要があります(「賃金全額払いの原則」)。
これは、社員の生活原資を保証するために、賃金全体の受領を確保させる趣旨に出たものとされており、かかる趣旨より、同原則には相殺禁止も含まれると解されています。
したがって、社員の同意がある場合の相殺や、調整的相殺が労基法24条1項本文の賃金全額払いの原則に違反しないかが問題となります。
なお、会社の従業員に対する不法行為に基づく損害賠償請求権と給与との相殺について、日本勧業経済会事件(最高裁昭和36年5月31日判時261号)は、「(労基法24条1項は、)労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもって相殺することは許されないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。このことは、その債権が不法行為を原因としたものであっても変わりはない。」と判示しており、不法行為債権と給与との相殺についても労基法24条1項との関係が問題となることに変わりはありません。

3. 不正受給額と賃金との相殺−合意による相殺 

また、会社が社員から通勤手当ての不正受給額の返還を請求する場合には、事務処理の簡便さ等から、給与等と不正受給相当を相殺することが考えられます。
もっとも、労基法24条1項本文は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」と規定しており、会社は原則として社員に対して賃金の全額を支払う必要があります(「賃金全額払いの原則」)。
したがって、会社が社員の賃金と、会社が有する債権とを一方的に相殺することは、原則として、労基法24条1項本文に違反し、許されません。
もっとも、賃金全額払いの原則の趣旨は、生活の基盤である賃金を労働者である社員に対して確実に受領させ、社員の経済生活を保護しようとすることにあることからすると、労働者である社員が相殺に同意を与えており、当該同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する場合には、かかる趣旨に抵触することもないため、当該同意を得て行った相殺は、労基法24条1項本文に違反しないと解されます。
ただし、前述した賃金全額払いの原則の趣旨に鑑みると、社員の同意がその自由な意志に基づくものであるとの認定は、厳格かつ慎重に行われる必要があります(日新製鋼事件(最高裁平成2年11月26日労判584号))。
以上からすると、ご相談のケースでも、原則として会社はXに対する賃金と不正受給額とを相殺することはできませんが、Xが自由意志に基づいて相殺について同意している場合には相殺することが許容され得ます。

(注)本記事の内容は、記事掲載日時点の情報に基づき作成しておりますが、最新の法例、判例等との一致を保証するものではございません。また、個別の案件につきましては専門家にご相談ください。

【参考文献】
菅野和夫「労働法第十一版」(株式会社弘文堂)